鑑賞記録まとめ 没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭

鑑賞記録まとめ

没後40年

ロミー・シュナイダー映画祭

@Cinema KOBE

 

各都市で行われている

『没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭』

 

神戸では、

Cinema KOBEさんでの上映!

 

没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭 上映作品

太陽が知っている 4Kデジタルリマスター版

1969/123分/フランス・イタリア/ジャック・ドレー監督

マックスとリリー※日本劇場初公開

1971/111分/フランス・イタリア/クロード・ソーテ監督

夕なぎ

1972/111分/フランス・イタリア・西ドイツ/クロード・ソーテ監督

離愁 4Kデジタルリマスター版』 

1973/101分/フランス・イタリア/ピエール・グラニエ=ドフェール監督

華麗なる女銀行家 4Kデジタルリマスター版

1980/130分/フランス/フランシス・ジロー監督

サン・スーシの女

1982/116分/フランス・西ドイツ/ジャック・ルーフィオ監督

地獄 ※日本劇場初公開(ドキュメンタリー)

2009/94分/フランス/セルジュ・ブロンベルグ、ルクサンドラ・メドレア監督

 

 

オーストリア、ウィーンの名門俳優一家の家に生まれたロミー・シュナイダー。6歳の時に両親が離婚し、不遇の幼少時代を過ごすも頭脳明晰で独立心旺盛だった彼女は14歳で俳優になることを決意。多くの傑作・話題作に出演し世界最高峰の女優として名を馳せたが、一方ではアラン・ドロンとの恋、破産、元夫と息子の死などスキャンダルやゴシップが付き纏う壮絶な人生を送り、『サン・スーシの女』(82)を遺作に43歳の若さでこの世を去った。しかし死後、マリリン・モンローやカトリーヌ・ドヌーヴを抑えて「今世紀最高の女優」(仏CSA調べ)に選ばれるなど、彼女の無比な佇まいと鮮烈な印象は色あせることなく艶やかに輝く。今回上映される、ロミーが美しい娼婦リリーを演じる犯罪劇『マックスとリリー』は日本劇場初公開。ロミーの艶やかな佇まいと、名優ミシェル・ピコリとの演技合戦が最大の魅力のひとつだ。また、かつての恋人アラン・ドロンと共演を果たした『太陽が知っている』、ふたりの男に愛される女性を演じた『夕なぎ』、戦時下を舞台にした切なく狂おしい名作『離愁』のほか、ジャン=ルイ・トランティニャンやジャン=クロード・ブリアリらフランスを代表する俳優たちが集う『華麗なる女銀行家』、ロミーの最期の出演作となった『サン・スーシの女』となかなか観る機会のない貴重な作品を含んだ6作品のラインナップ。映画に愛された感動的な<表情>をたたえ、その美しい眼差しを投げかけるロミー・シュナイダーと銀幕で再び出会えることを、ぜひ楽しみにお待ち頂きたい。(没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭公式サイトより)

 

ロミー・シュナイダー Romy Schneider

 1938年、オーストリアのウィーンで名門俳優一家の元に生まれる。本名ローゼマリー・マグダレーナ・アルバッハ。6歳のとき両親が離婚、不遇の幼少時代を過ごすが頭脳明晰で独立心旺盛だった彼女は14歳で女優になることを決意。1955年の西ドイツ映画『プリンセス・シシー』の后妃エリザベート役によって欧州中で愛されるスターとなる。その後『恋ひとすじに』(58)で共演したアラン・ドロンと19歳にして恋に落ち婚約。ルキノ・ヴィスコンティ演出の舞台やオムニバス『ボッカチオ‘70』(62)の一編「仕事中」、オーソン・ウェルズ監督の『審判』(62)、またゴールデングローブ賞主演女優賞候補となったオットー・プレミンジャー監督の『枢機卿』(63)など精力的に活動するも、4年後にドロンと破局。失意の中、66年にドイツの舞台演出家と結婚、一児をもうける。2年ほど育児のため映画界から離れていたが、69年にドロン共演の『太陽が知っている』がヒットを記録、見事なカムバックを遂げる。以降は再びエリザベートを演じた『ルートヴィヒ』(72)、イヴ・モンタンと共演した『夕なぎ』(72)、フランス全土で大反響を巻き起こした『追想』(75)と多くの傑作、話題作に出演、“世界最高峰の女優”として名を馳せる。一方で度重なる色恋沙汰、破産、さらには元夫や息子の死など常にスキャンダルやゴシップがつきまとい、遺作となった『サン・スーシの女』(82)撮影の頃には心身ともに激しく疲弊していたという。82年、パリで逝去。次作で共演が予定されていたドロンの手配で大々的に葬儀が行われたが、ドロン自身は騒動を避けるため参列しなかった。

(↑没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭公式サイトより)

かつてロミーはアラン・ドロンに「人生で何をしたらいいか分からない。みな映画のなかでやってしまった」と語った

母国語のドイツ語に加え、フランス語と英語が使えた。また、苦手だったがイタリア語で演技することもできた。

極度のあがり症で、特に新しい映画の撮影初日には、不安感から遅刻することが多く、重要なシーンの前などでも緊張のあまり閉じこもって出てこないことがあった。撮影中にワインやシャンパンを飲み不安を和らげようとすることも多かった。

演劇学校で学んだことがなく、現場叩き上げだったロミーは、「才能は、習得できるものではない。もし才能があるなら、細かい技術はおのずと身についてくる。舞台でどう動くかとか映画でいかに話すか、などということは」という考え方を持っていたため、アクターズスタジオ系の俳優や、その構築的な演技手法とは終生そりが合わなかった。

インタビューでは、好きな監督・映画人にオーソン・ウェルズを、尊敬する人にルキノ・ヴィスコンティを挙げている。ロミーはヴィスコンティを「師匠」と呼び、『ボッカチオ’70』のとき贈られたヴィスコンティの母の形見の指輪を常に指にはめ、大切にしていた。

(↑ウィキペディアより)